戦前の塩谷広五郎
2025年7月11日 / その他
川井広五郎は、1883年(明治16)一宮市木曽川町の造り酒屋・蔦半で生まれた。長男は為三郎、四男・広五郎、五男・文伍のほか2人の兄弟があったが、名前は分からない。全員で5人兄弟。広五郎が8才になったばかりの、1891年(明治24)10月28日、岐阜県本巣郡根尾村を震源地とした濃尾地震が発生した。この地震はマグニチュード8の世界でも最大級の直下型地震だった。木曽川を挟んだ北側の笠松町では火災が発生し、その煙と火の粉が、木曽川町まで飛んで来た。堤防は崩れ、近所の家々はほとんど倒壊した。両親は柱の下敷きとなり、子供たちを守って死んだ。幼い兄弟たちは親戚筋に引き取られ、バラバラになってしまった。為三郎は川井家の親戚へ、広五郎は名古屋の塩谷家へ、文伍は一宮の永瀬家へ入った。幸いなことに広五郎は、名古屋の大富豪・塩谷家の養子となり、何不自由のない生活を送ることができた。
塩谷家は松坂屋の伊藤家と並ぶほどの大富豪だったので、あまりにも贅を尽くした嫁入り行列は三百米にも及ぶ豪奢ぶりだった。それが尾張徳川家の怒りを買い、塩谷家は郡上八幡へ所払いとなってしまった。
養父は、郡上八幡の中心地、本町に大きな家を建てて、名古屋から移り住んだ。下の写真は本町通りの「今廣分店」である。この場所は、後の「グランド印刷研究所」となる。広五郎は、30才の青年になった頃には、自分が商才に長けている事に気がつき始め、1913年(大正2)から郡上八幡で木炭バス会社・今広自動車の経営に乗り出した。
すでに、大和村の渡辺寅之助が乗合自動車を走らせており、その時代を先取りした自動車が眩しく見えた。寅之助はいつも懐に1万円は持っていたので、八幡町北町地域では、一番の金持ちだと見做されていた。
寅之助に追いつけ追い越せと思った起業家気質の広五郎は、国産の車が無かったため、東京まで行ってアメリカのフォードT型を五台購入してきた。郡上八幡から美濃の間、6人乗りとして営業を開始した。所要時間は二時間で運賃は片道60銭(現在では8千円〜1万円位)の長距離路線乗合いだ。岐阜県内でもバス会社は珍しく、長距離移動は馬車が一般的な時代だ。相生村から八幡に行く街道は長良川沿いの山を削った道で、「箱坂」という名前の道で、恐ろしく荒れた地面だ。
八幡から白鳥間は渡辺自動車、八幡から奥明方(現・明宝)間は、古池自動車が路線バスを走らせていた。昭和になって12人乗りのバスを購入し、八幡町内では市内バスを運転するようになった。市内バスコースは、本町から国鉄越美南線の郡上八幡町駅までの周回路線だった。
広五郎は八幡町の町議会議員として政治にも関わるようになっていった。当時の町長・仲上忠平は、八幡町を観光地とするために、昭和8年に大垣城を模した郡上八幡城を建立した。これは、日本最古の木造建築城として現在でも遺っている。広五郎は、このプロジェクトの一員としても参画していたようだ。
本業の自動車業は、当時自動車保険も無いし、事故をおこせば大きな損害になり、故障も頻繁だったため、修理にお金が掛かってしまった。
郡上の人々には、自動車が何なのか分からないし、物珍しさに乗ったとしても運賃が高額すぎた。村民が気軽に乗れる代物ではなかったのだ。同業者との競争も激化し過ぎたために今広自動車(今広バス)は、経営が行き詰まり、大和村の渡辺寅之助に事業を1万2千3百円(現在の2千7百万円)で売却した。
1938年(昭和10)、広五郎は21年のバス事業を閉鎖した。
広五郎は、自動車会社を売却した金で次の事業に乗り出した。東京都江戸川区へ出て航空機部品の鍛造の工場を始めた。甥っ子にあたる川井武司を美濃の今廣酒造店から呼び寄せ、手伝わせることにした。
仕事が、軍需用部品だったために広五郎は徴兵を免れた。
1941年(昭和16)から、日本は第二次世界大戦・太平洋戦争へと没入していった。日本は真珠湾攻撃で勝利をおさめ、日本中が大いに湧いた。
徐々に戦況は悪化の一途を辿り、東京にも空襲警報が鳴り響くようになってきた。広五郎と川井武司らは、部品工場を閉めて、郡上八幡に疎開することになった。
戦争が激しくなるにつれ、郡上八幡は、疎開して来た人達でいっぱいになった。大勢の人々は、お寺を宿舎にしていた。郡上から遠く離れた都市部、岐阜市では7月9日に13機のB-29が1万発の爆弾を落とし、死者数約900人に及ぶ大空襲だったが、山間部の郡上は、飛行機の音が少し聞こえる程度だった。それでも電球には黒い布を掛け、真っ暗にして夜を忍んだ。郡上八幡城も黒く塗られたという逸話もある。
青年の殆どは徴兵されていき、ご婦人らは、竹槍で米軍機を落とそうと、訓練を重ねた。郡上で暮らしている人々にとっては、被害がなかったが、新聞やラジオは戦争一色になっていた。戦死の話題も耳に入るようになり、生活はますます苦しくなり、消費物資が次々と配給制になった。そしてこの配給制度は村民たちの仕事まですっかり変えてしまった。
1945年(昭和20)8月15日、広島・長崎に原爆が落とされ、日本の敗北がラヂオから響いた。昭和天皇による玉音放送は、悔しさと安堵が入り交じった複雑な感情をもたらした。その晩、町の中心部にある願蓮寺の前の通りでは、世界の終焉を迎えたにも関わらず、狂い踊りの如く、あちこちに小さな輪ができて「郡上おどり」が始まり、深夜12時ごろまで続いた。
この終戦により、日本の価値観が一変した。アメリカ・マッカーサーGHQによる指導のもと、皇国日本から民主主義や自由、経済発展への道を突き進む事になる。
八幡小学校にも岐阜軍政部のマニングが視察のために来校している。この頃から、女生徒はセーラー服を制服としている。
※濃尾地震図提供:一宮市立図書館
取材協力:株式会社ミノグループ
(敬称略にて、失礼いたします)